自己分析をする前に

人生を気楽に生き、穏やかな人間でありたいと考えるのならば、
トレードオフ的な思考に基づく慰め
・多種多様な価値観が存在することを意識すること
この二つははずせないと個人的に思います。


トレードオフ」というのは、

一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという二律背反の状態・関係のこと by wikipedia

であり、工学全般においてはお決まりの概念です。
んで、このトレードオフ的な考えを、
自分の苦手なこと・コンプレックスを感じていることを遠ざけるために使うとものすごく便利です。
「俺は○○は得意だから、××は出来なくてもいいよね。」
「△△を大事にしようとすると、俺の好きな□□に影響が出ちゃうからいいや。」
といった具合に。
ただ、これが行き過ぎて、
「何かを否定することで自己を正当化する」ようになっちゃうとまずいでしょうけど。


もう一つ、「多種多様な価値観が存在することを意識すること」
これに関する話として、かのニーチェ

『まことに、この善の賞讃の力、悪の非難の力は怪物である。さあ、言ってごらん、わが兄弟よ、
誰がこの怪物を制圧してくれるだろうか?誰がこの怪物の千の首にくびきをかけるだろうか?
 千の目標が、従来あったわけだ。千の民族があったから。ただその千の首を結びつけるくびきだけが、いまだにない。
ひとつの目標がない。人類はまだ目標を持ってない。』

とおっしゃっているんですが、これはつまり、
「善を源にする力、悪を源にする力というのは強力で怪物のようであるが、
何を善とするか・何を悪とするかという、いわゆる価値観はたくさん存在する。」
という意味で、ニーチェはここから、
「己の正義をかざして徳を語り、戦争をするような人間」を痛烈に批判したりするわけですが、
それはまあ置いておいて、
やはり価値観というのは多種多様あるもので、
さらに僕は大半において、「優劣は存在しない」という考えで、
言えるとしたら、せいぜい「好き・嫌い」程度でしか語れないものであり、
「どのような観点からみても、これは正しい・これは間違い」
というように絶対的に考えられるもの、ではないと思うんです。


んで、長い前置きでしたが、
この考え方を意識すると、まず自分と他人とを比べることがアホらしくなるんですよね。
そして、「あの人はあの人。俺は俺。」が出来るようになる。
いわゆる、「みんなちがってみんないい」の考え方ですね。
なにか自分の価値観を批判することがあっても、
「ああ、この人と俺の価値観は違うんだな。」と思いつつ「なるほどね」で終了と。


まーただ、この考え方を意識しすぎていると、
自分の価値観を押し付けてくるタイプの人との相性が悪くなりますね。
「俺は俺、お前も俺みたくなれ」にたまらなくうざさを感じてしまうようになる。
僕からすれば、「お金が全て」的なビジネス厨と妄信的信者は
「価値観に優劣をつけ自分以外の価値観を否定して、自分の価値観を押し付ける」
という点で、まったくもって同じです。


と、少し話しがそれましたが、こんな感じで気楽に生きようとしているんですが、
就活となるとこれが通じなくなってくるんですよね。
それはなぜかというと、まず、就活では自己分析をして、
自分の長所と短所を明確にしそれを文章にし言葉にしないといけない。
もうこの時点で、心が荒れ気味です。
目を背けていた自分の欠点と向き合わないといけないですから。
その上で、落とされたりしたら当然凹みますよね。


こうなってくると、
「俺なんてそもそも大した人間じゃないんだ。しょうがないんだ。」
といった考えで自分を慰めるしかなくなってしまったり、
はたまた、「人間らしさを大事にしたほうがいいんじゃないか」
みたいな、明らかな平和ボケ思想に至ったりする。
これは自分を慰める最終手段としては必要な考え方かもしれませんが、
やはり、自己啓発・向上心には悪影響な気がして扱いが難しい。




なんてことを、一昨日の「耳をすませば」を見ながら思いました。