悪は可能か?

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

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三島由紀夫さんです。以前ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだときに、
どこかで、『「罪と罰」は行為の「後」の話、「金閣寺」は行為の「前」の話だ。』
という文章を見て、前々から読みたいと思っていました。

この話の大きなテーマは「美」と「行為を起こすまでの主人公の心理の変遷」かな。

罪と罰では主人公ラスコーリニコフの動機のところは、あんまり書かれていませんでしたが、
金閣寺はそこに焦点を当てていて、物語中「悪は可能か?」と何度も自問する主人公の、
醜悪なナルシズムが長い時間をかけ強くなっていく様はなかなか面白かった。



以下、印象に残った文章。

『どんな人間にもおのおののドラマがあり、人に言えぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、と大人は考えるが、青年は自分の特殊事情を世界における唯一例のように考える。』



『俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。
認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。
認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。
だがこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。
動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、
それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
「生を耐えるのに別の方法があると思わないか」
「ないね。あとは狂気か死だよ」
「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。
「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」』



『「君もあいつの片輪の足が好きだったのとちがうか。」
「やめといて、あんな蛙のような足。わて、そうやな、あの人の目はきれいな目やと思うけど」
これで又私は自信を喪った。
柏木がどう考えようとも、女は柏木の気づかぬ美質を愛していたことになるが、
自分について何一つ気がついていないところはないと思う私の傲慢さが、
そういう美質の存在を、自分にだけは拒んでいたからである。』



『「人に見られるとおりに生きていければよろしいのでしょうか」
「そうも行くまい。しかし変わったことを仕出かせば、又人はそのように見てくれるのじゃ。世間は忘れっぽいでな」
「人の見ている私と、私の考えている私と、どちらが持続しているのでしょうか」
「どちらもすぐ途絶えるのじゃ。むりやり思い込んで持続させても、いつかは又途絶えるのじゃ。
汽車が走っているあいだ、乗客は止まっておる。汽車が止ると、乗客はそこから歩き出さねばならん。走るのも途絶え、休息も途絶える。
死は最後の休息じゃそうなが、それだとて、いつまで続くか知れたものではない。」』





さて、ここ2年くらい、文学に興味を持ち何冊か読んできましたが、なんかもう文学ってきついですね。
多くの人に読まれているということは、何かしら人生で大切なことを学べるものなんでしょうけど、
1回読んだけじゃ言わんとしていることが全然理解できない。大体、言葉が難しいんですよ。
まあ、文学を読んで「人間の心の深みを知ることができた」という利益はありましたけど、
哲学的な領域はほんと太刀打ちできなかったなぁ。
まあとりあえず今後文学を読むとしたら、「カラマーゾフの兄弟」「戦争と平和」などの、
特に名作といわれている作品を、理解できるまで何回も読むっていうスタンスにして、
これ以上、手広く新しい文学を読むのはやめにしようかと思います。



あと、そろそろ時期的に院試の勉強を本格的にやり始めないといけません。
今のうちから始めて、基礎固めをしておかないと差がつけれないんで。
とりあえず、5月までに線形・微分方程式複素関数はなんとなく網羅したんで、
6月は専攻科目の勉強に集中していきます。
院試で受けようとしている専攻の科目は、
電気回路・データ構造とアルゴリズム/プログラミング、オートマトンの3つで、
「データ構造とアルゴリズム/プログラミング」と「オートマトン」に関しては、
課程が違ったために授業を受けてさえいない内容なんで、
まずは勉強に使う参考書選びからですね。
目標としては、7月の中旬までにはこの3科目の勉強を終えて、
そこから8/26の院試までは具体的に過去問を解いていこうかと。