雑記1

文系の人(読書しまくりの人達というべきか)ってなんであんなに堅苦しい文章を書くのでしょうか。
そもそも言葉が難しくて、内容をスムーズに理解することができないんですよ。
そりゃあ、彼らは学問として読書をする際に必要になるでしょうから、その言葉の意味を勉強して理解してるんだろうけど、
それを聞き手・読み手が、その言葉を理解できるかどうかを考えずに表現するもんだから、
こっちは、「え?なに言ってんの?でっていう?」ってなるんですよね。
「無粋」とか「畢竟」とか言わないで、「人情がない、おもしろみがない」とか「結局」でいいよね。
まーこれは理系の俺が、文系にジェラシーを感じてしまう一例でもあります。
お前らちょっと賢そうじゃん、みたいな。



さて、金閣寺に次のような文章、
『どんな人間にもおのおののドラマがあり、人に言えぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、と大人は考えるが、青年は自分の特殊事情を世界における唯一例のように考える。』
というのがありましたが、
ここ最近「人間ってみんな色々な経験をしていて、結構考えて生きてるな」ってすごく思います。
そう考えると、ゆうこりんとか山口もえとかがすごい謎に見えてきます。
今の俺は、どう考えてもあのキャラは考えてやってるとしか思えないですし、
この感覚に関しては、まあ大多数の人から共感を得られると思うんです。


じゃあ芸能人ではなく、身の回りにいる天然キャラの方々はどうなんでしょう。
僕は彼ら彼女らも多少考えてやってるんじゃないかと考えてしまうんですが、実際どうなんですかね。(もちろん素もあるとは思ってます。)
特に、「ちょっとバカっぽいほうが男性からはかわいく見えるんじゃないか」
という思考で、そういうキャラを演じている女性の存在をテレビとかでたまに見ますけど、
からしたら、そういう考え方は完全にマイナス評価なんですよね。
まあそういう人間が自然淘汰の結果、勝ち残るという風潮が世の中にあるのだとすれば、
それは簡単に騙される男が悪いのかもしれませんが。



あとここ2,3ヶ月の間、たまに考えることなんですが、
「死にたい」と考えている人には何と言ってあげたらいいんでしょうか。
恐らく一番言ってはいけない言葉が「じゃあ死ねば?」なんでしょうけど、
僕はそれに近いことを思ってしまったりもします。(もちろん精神病の方は別です。)
それはなぜかといいますと、これはまたまた金閣寺からの引用で、
『自分は何のために生きているか?
こんなことに人は不安を感じて、自殺さえする。
俺には何でもない。
内翻足が俺の生の条件であり、理由であり、目的であり、理想であり、…生それ自身なのだから。
存在しているというだけで、俺には十分すぎるのだから。
そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生まれるものではないのか。』
という一節があるんですが、僕はこれに近い考え方をしています。
「自分が十分に存在していないという贅沢な不満」、つまり「世界はもっと俺を必要とすべきなんだ」
という気持ちが、現代人の自殺の動機ではないかと。
もちろん、個々で特殊な事情があるんでしょうけれど、元をたどっていくとこの動機にたどりつく気がするんです。
そういう人間には「一度死んでみたら?」と言って、とことん存在を否定すべきなんじゃないかなぁなんて。
自分を否定しつくして、そこから這い上がる、という過程が必要なんじゃないかって。
まあこんな軽はずみなこと怖くて言えませんけど。




他には、ある本にこんな言葉もありました。
『人は概ね自分で思っているほど幸福でも不幸でもない。
大切なことは、望んだり生きたりすることに飽きないことだ。』
つまり、今幸福か不幸かなんてどうでもいいからとにかく希望を持ち続けろってことですね。
個人的にも、未熟な人間は不幸なときに「なんで俺だけがこんなに不幸なんだ」とか考える気がするんですが、
実際、宇宙から見たらどうでもいいんですよ。
僕も「なんで俺だけ恋愛うまくいかないんだ」ってよく思います。



どうでもいいですね。



まあ生きるか死ぬかでいうと、僕はむしろ生きたいです。