良心にさいなまれていると、やがて他人をもさいなむ癖がつく

いやー、哲学って苦手ですわ。とりあえず難しい。
んで、ニーチェの超人思想、これは正直俺なんかじゃ実現不可能だわ。
wikipediaには、超人について

ニーチェはその著『ツァラトゥストラはかく語りき』において、
人間関係の軋轢におびえ、受動的に他者と画一的な行動をする現代の一般大衆を『畜群』と罵った。
その上で、永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する『超人』であるべきであると説いた。
個人主義の推奨とであり、「自身の善悪観が世界に屈服しない生き方の推奨(己の価値観=全て)」とまで言えば間違いではない。

すべてのものは平等に無価値であり、終わりも始まりもない永劫回帰という究極のニヒリズムから、
運命愛にいたり、無から新価値を創造、確立する強い意志を持ったものをニーチェは超人と呼んでいる。
しがらみも伝統も秩序もまったくの無であるということは、そこからあらゆる新価値、新秩序が構成可能だということである。


と書いてありましたが、無から新価値を創造・確立する強い意志を持つ、これが無理。
そもそも、理解するのに困ってwikipediaで検索しちゃってる時点で俺には無理なんですよ。
もちろん、受動的に他者と画一的な行動をする人間にはなりたくないとは思いますけど。


あと、今までの読書生活で培ってきた微力な市民道徳ってものが僕にはあったんですが、
その徳をこの通俗的な社会の中で発現させるのはすごく難しく、
やっぱこんなの無理だわって思ってたりもしたんです。
ですが、そんな感じで軸がぶれていたところに、
ニーチェに市民道徳を批判され代わりに超人思想を持ち出されまして、
「あれ、こういう抜け道あんのか」と最初は思ったりもしました。
でも、超人思想てのもこれまたすげえきついんですよね。


あと、超人について考えてたら「罪と罰」のラスコーリニコフを思い出しました。
彼は超人思想を持っていたわけではないと思いますが、無神論者として似たものを感じますね。




とりあえず、哲学は俺には合わない・勉強してもどうせ理解できない、ということはわかりましたが、
自分の生き方にためになった部分も無いわけではなく、メモりたかった文章もあったんで、そこを↓に引用します。




同様に、罪におちたと思い、良心に責められている者もだ!
わたしの友だちよ、わたしの言うことを信じなさい。良心にさいなまれていると、やがて他人をもさいなむ癖がつく。

おお、あなたがた、神経質な偽善者よ!好色漢よ!
あなたがたの欲望には、無邪気さが欠けている。だからあなたがたは欲望を悪しざまに言うのだ!

まず大胆にあなたがた自身を信じることだ、
−あなたがた自身と、あなたがた自身の内臓を!自分自身を信じない者は、かならず嘘をつく。

 まことに、わたしはあなたがたに言う。恒常不変の善と悪、そんなものは存在しない!
善と悪は、自分自身で自分自身をくりかえし超克しなければならない。
 あなたがた価値評価者たちよ、あなたがたは、あなたがたの立てたもろもろの価値や善悪の見解によって、支配力を及ぼしている。
しかしこのことは、実はあなたがたの隠れた愛であり、あなたがたの魂のかがやきであり、震えであり、沸騰なのだ。
 しかしあなたがたの立てたもろもろの価値からは、より強い支配力と新しい克服が育ち、大きくなってくる。
それによって卵の殻はわれる。
 善悪において創造者とならなければならない者は、まことに、まず破壊者となって、もろもろの価値をこわさなければならない。
 だから、最高の善意には、最高の悪意が必要ということになる。こうした最高の善意こそ創造的な善意なのだ。

まことに、わたしはしばしば弱虫どもを笑った。
かれらはその手足が弱弱しく萎えているので自身を善良だと信じているのだ。
 あなたは、あの支柱の美徳にならうべきだ。
支柱は上に行けば行くほど、ますます美しく、華奢になり、
しかも内部はますます強く、支える力を増す。

 わたしの第一の処世の術は、自分がだまされるままになるということである。
わたしは欺く者を警戒する念を持ちたくないのだ。
 また、人間のあいだで渇き死にたくない者は、あらゆる杯から飲むことを学ばなければならない。
人間のあいだで身をきれいにしておこうと思う者は、汚れた水でも身を洗うことができなければならない。

 さて、わたしの第二の処世の術は、こうである。
わたしは虚栄心のつよい者のほうを、誇りの高い者よりも、大事にする。
 わたしはすべての虚栄的な人間が、良き俳優であるのを発見した。
かれらは見物がよころんでくれるようにと演技する、--かれらの精神は、すべてこの意志のもとにある。
 かれらは舞台にのぼり、自分の仮りの姿を演ずる。わたしはこうした人たちの近くにいて、
人生の劇を見物させてもらうのが好きだ。--それは憂鬱を癒やしてくれる。
 それにまた虚栄的な人間の持っている謙遜の深さ。誰がその深さを測りつくすことができるだろう!
かれの謙遜のゆえに、わたしはかれを愛し、かれに同情をよせる。
 かれは、あなたがたによって、おのれの自信を獲得したいと思っているのだ。
かれはあなたがたの目つきによって、身を養っている。かれはあなたがたの手から、賞賛をむさぼり食う。
 あなたがたが、かれらの耳に快くひびく嘘をつけば、かれらは嘘でも信じる。
それはかれの心の奥底にこういう嘆息があるからだ、「このわたしは、ほんとうは取るに足らない者ではないのか!」
 自分自身を意識しないことこそ、真の徳であるという。虚栄的な人間はたしかにおのれの謙遜を意識していない者だ!

あなたの愛と希望とを投げ捨てるな!
あなたの魂のなかの英雄を投げ捨てるな!
あなたの最高の希望を聖なるものとして保ってくれ!