明日から本気だす

今日で6月も終わりますね。
5月は5月病にかかり堕落生活を送り、
6月も5月病が継続して6月病的な堕落生活を送ってしまいましたが、
7月からは流石に本気を出して院試勉強をしようかと思います。


あと、TOEICは院試に使う分にはそこそこの得点を取ったつもりだったんで、
最近はもう受けなかったんですが、
周りのやつがどんどん高得点を出してんですよね。やられました。
もうこうなったら、他の科目の点数で追い抜くしかありません。
悔しさをバネに頑張ります。




さて、僕は何年か前、孔子論語を読んでからというものの、
「中庸」という概念が好きになりまして、中庸を身に付けることを目標にしています。
中庸とは、wikipediaによると、

「中庸」という言葉は、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆されたのがその文献初出と言われている。それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。たがその論語の後段には、「民に少なくなって久しい」と言われ、この「過不足なく偏りのない」徳は修得者が少ない高度な概念でもある。

「中庸」の「中」とは、偏らない、しかし、決して過不及の中間をとりさえすればよいという意味ではない。よく、中途半端や50対50の真ん中と勘違いされている。

「庸」については、朱子は、「庸、平常也」と「庸」を「平常」と解釈しており、鄭玄は「・・・庸猶常也言徳常行也言常謹也」と「庸」を「常」と解釈している。「庸」が「常」という意味を含んでいることは二人とも指摘している。現在、多くの学者たちは「庸」が「平凡」と「恒常」との両方の意味を含んでいると見ている。

中庸は儒教倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。

というもので、端的に言うと、
・「極端」ではなく「過不足がない」
・実質50%・装飾50%ではなく、内容を充実させるべき部分は充実させ、形式を整えるべき部分は整える
といった感じです。


これを「信頼関係」を例に説明すると、
信頼関係とは盲目的に信じることではない。もちろん、無闇に疑うことでもない。
信頼できるものは信頼し、用心すべきものは用心するもの。
だが人は、信頼か用心かどちらか一方に偏りがち、ことこどく信頼するならば妄信と言い、
ことごとく用心するならば疑心暗鬼と言う。


また、中庸において注意しないといけないのは、中庸≠中間だということ。
中間については、孟子が次のように批判しています。
「中間をとることは中庸に近いが、臨機応変なく中間をとるならば、一つに固執するようなものだ。」
つまり、信頼の例でいえば、信頼性の高いものも低いものも一律に50%信頼するというのは、
中庸ではなく、中間であり偏ったやり方だとおっしゃってます。


でもこれって難しいですよね。
まず、中庸を行うためには全体を知らないといけないと思うんです。
例えば、1本のテープがあるとしてどの位置がバランス取れてるか知りたいと思っても、
全体のテープの長さがわからない状態ではまったくわからないじゃないですか。
全体のテープが10cmだってわかれば、5cmのところがバランス取れてるなってわかりますけど。
だから結局、中庸っていうのは最終目標であって、
ひとまず若いうちはいろんなことを経験し、多種多様な価値観に触れることで、
そのテープ1本1本の全体の長さ(全体像)を徐々に把握していく必要があると思うんです。
そう考えると、新しい人との出会いや読書っていうのはすごく大事だなと思いますね。