5月病

どうも、ヘタレです。
さて、僕は、「女性に対する自分」を評価する際、
「シャイ」だという言葉を使ってきたんですが、
正直これは正確な表現ではなく、実際はシャイなんてかわいいものではありません。

『自分は、皆にあいそがいいかわりに、「友情」というものを、いちども実感した事が無く、堀木のような遊び友達は別にして、いっさいの附き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうとして懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っているひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、めまいするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に於いては欠けているところがあるようでした。(もっとも、自分は、世の中の人間にだって、果たして「愛」の能力があるのかどうか、たいへん疑問に思っています)そのような自分に、所謂「親友」など出来る筈は無く、そのうえ自分には、「訪問」の能力さえ無かったのです。』


これは、かの有名な太宰治の「人間失格」の一節です。


この文章の語り部のような人間が、僕に近いタイプであり、
シャイなんていう微笑ましいものとは完全に異質です。
もちろん、
『「友情」というものを、いちども実感した事が無く』
なんて思っちゃうほどに重症ではありませんが、
やはり、人を愛する能力に於いては欠けているところがあるんではないかと、
自分自身ではそう思います。
というかこれは、人間失格を読んだ当時もそう思い、
「はやくしろー!間に合わなくなってもしらんぞー!」
って思ってたんですが、いまだに直ってませんね。
恐らく、この陰気な性質を直してくれるような人を理想に思い、
そのような人は自分より精神年齢の高い人だろう、と考えて、
「年上がいい」と常日頃いっていたんだろうなと思います。
まあしかし、自分に同情して他人に頼っているようじゃ情けないですしね・・・


とりあえず、これはかなり深く根付いている性質ですので、
早急にどうこうできるものではない気もしますし、
自分のペースで対処していこうかと思います。




あと、もう一つ。「人間らしさ」という言葉。
「人間らしさ」を定義するのはなかなか難しいですが、
ここではひとまず「日本人を統計的に見たときの、人間が直感的に行う仕草・有り様」
としたいと思います。
そうした上で、さきほどの話を考えますと、
僕には「人間らしさ」も欠けているということになるかもしれません。
耳年増なのか、分別くさいのかわかりませんが、
どうも物事をまず冷笑的に見てしまう。
まあ冷笑的という言葉を、「批判的」と言いかえて考えると、
「物事を批判的に見る」というのは、研究をやる人間には必須の見方なので、
研究、はたまた仕事上ではいいことなのかもしれません。
ですが、それ以外のことにも同じ様に行くのはまずいかなぁと。


ただ、僕がこの「人間らしさ」を素直に受け入れられないのは、
この言葉がルサンチマン的思考の元に使われることがあるからで、
「人間らしい」という言葉を聞くと、

そのとき私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。成程後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし、人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点が既に反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私は猶のこと自説を主張しました。するとKが彼の何処をつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。-君は人間らしいのだ。或いは人間らし過ぎるのかもしれないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないようなことをいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。

この夏目漱石の「こころ」の一節が毎度思い出されるんですよね。


つまり、相田みつをの「だって人間だもの」は、
Kから言わせれば「それはただめんどくさいだけじゃないの?」
っていうことになるんでしょう。
まあ自分の弱点と戦いつつ、人間らしくいけばいいんでしょうね。



なんてことを、5月病気味に考えてしまった一日でした。
さあ、もうすぐ6月だ。